「表現」


 第一回目のお題は、私にとってこれしかないだろう、というものを選びました。ネットで私の話をよく聞いて下さる方は「ああ……」と思いになられるでしょう。ほとんどそのことしか喋っていないとさえ言えます。その割には、大したことを話せていないのですが……。

 私は表現というものが大好きですが、そこには人のさまざまが在るからです。とくに人付き合いの得意でない、不器用な人間としては、ひろくふかくひとのカオを知るための窓となっています。ひょっとしたら世界そのものであるかもしれません。

 とうぜんそれだけでなく、いっとうの楽しみでもあるわけです。こどもの頃は拠りどころでした。はじめは「漫画」です。学研漫画シリーズや、小学何年生、コロコロコミック、ボンボン、ガンガン、ジャンプ……年齢とともに読むものも変わってゆきましたが、十代までは確実に、私にとって表現のほとんどを占めていました。

 また当時、残りわずかを占めていたのが「音楽」で、それも邦楽しか聴きませんでした。私が思春期をすごした一九九十年代というのは良くも悪くも邦楽が売れに売れていたので、これもまたなかば必然として触れていました。クラッシックや洋楽に触れるのは二十歳に差し掛かる頃からです。

 そして二十歳からいまに至るまで、私の心をつよく掴んだのは「映画」です。私が表現を語る基本は映画、そしておそらくハリウッド映画が大部分を占めていると思います。もちろん(ハリウッド映画に対し)まったく批判がないわけではありませんが、優れた表現のひとつとして依然私の中に輝き続けています。

 そんな私が考える表現論を、すこし書き連ねたいと思います。

 表現にそれを表す技術が必要なのは明らかですが、私は実が希薄ゆえに技術が悪目立ちするものが好きでありません。心がおおく含まれないものに興味はもてない。つまり技術を「必要」と考えていて「重要」とは感じていない、ということです。

 作者の言いたいことが、作者自身の技術によってどのように表されているか。そこが私の興味を持つ一点です。なので小学生から老人、初心者から熟練者まで、あまねく表現者が興味の対象です。その年齢、環境、うでまえ、個々のオリジナルに触れることが、とても楽しいのです。

 ではうまいへたには興味を持たないのか、というとそれは違って、うまいひと、優れた表現者は尊敬しています。やはり上下というものはある。それを見抜く目をもたず(あるいは放棄し)、すべての表現へ満点をあたえるのは、不健全だと考えます。

 ただしその上下はひとつのモノサシで量れるものではないのです。いくら素晴らしいといっても、たとえば気分が沈んでいるとき深刻な作品には触れたくない、という感情もあるのが人間です。また俗には俗の魅力があり、いわゆる低俗という言葉で片付けられない輝きが在る。いのちは絶えず動いており(死とは止まることである)、その行く道、行き方、さまざまな面ににシャッターを切るのが表現であるので、いろいろなカオを、優れた目と腕で切り取っている表現が、「うまい」と言えるのではないでしょうか。

 本質がなにかを定義するのは難しいですが、古今東西の反応をみれば、優れた表現がなにかというのは、おのずと浮かびあがってくるのではないかと思います。





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