「バーチャルリアリティ」


 第二回はバーチャルリアリティのお話です。どうもネットをみるとこの言葉、多様な意味があるようですが、ここでは「仮想現実」という意味で使います。

 すこし前、ジェームズ・キャメロン監督の3D映画「アバター」が公開され話題を呼びましたが、私はまだ見ておりません。いろいろ理由があるのですが、そのひとつは「映画」と「バーチャルリアリティ」のはざまにあるこの作品に対し、受け取り方を迷っているからです。

 映画は表現で、バーチャルリアリティは表現でない、というのが私の見解です。キャメロン監督は尊敬する表現者のひとりであり、氏が以前から志向するものも理解しているつもりなので、アバターに込められた氏の表現テーマへ対する批判はありません。きっと素晴らしい、映画史の新たな第一歩を記した記念碑的作品であることは想像に難くない。ただ、いまは私の中の何かが受け取るべきでない、といっているので、この作品は見に行きませんでした。

 アバターのことは横におき、なぜ私がバーチャルリアリティが表現でない、と述べるかというと、それは現実のしるしを刻んだものでなく、現実のしがらみを受けない、第二の現実であるからです。

 たとえば大きな家に住み、地位ある職業に就き、満足な収入を得、素晴らしい仕事仲間と友人に囲まれ、愛する恋人または妻、夫、子供が居て、わずらわしい人間関係のしがらみもなく、病気や怪我に脅かされることも、天災人災に見舞われることもない、というビジョンがリアルに体感できたとしたら、そこから現実へ戻りたい、という人は居ないと思います。つまり願望のみで埋め尽くされており、じっさいの現実を必要としない、第二の現実なのです。

 アバターはそんな作品でありませんが、よりリアルに体感できる別現実のビジョンを公へ示し、広げ、進めた、というところが、そこへの一里塚になっている。将来はマトリックスのような、カプセルに入って生涯夢を見続ける肉団子に成り果てる、人類の非生物化への道のりが確実にあるということを多くへ知らしめたひとつの象徴である、と私は思いました。

 人間という生き物は、知恵を持った時点で死という絶対へ反抗し続ける哀れなドン・キホーテです。宇宙の中のちいさな点の集合は、その滑稽さを自虐的に泣き笑いながら、あるところではロボットをつくり、あるところでは仮想現実をつくり、克服できない現実の代わりになる現実を作り続けています。

 表現と呼ばれる映画、小説、演劇、漫画、アニメーション、その他さまざまも、人類の慰みでした。しかしそればかりではなく、現実を生きる、先人の想いと知恵の詰まった生きものの記録でもあったのです。そこへは人生の辛さと闘い、楽しさを謳歌する人間の生きざまが込められている。私のいう表現とは、じっさいの生き物の記録であり、嘘八百の絵空事ではないのです。

 念のためですが、これは「アバター」の作品性およびキャメロン氏への批判ではありません。氏の意図はともかくとして、バーチャルリアリティ汎用化のおおきな一歩が、大衆娯楽の最たるものである映画という表現に現れたことに対する、本能的な危機感として書いたものです。キャメロン氏は人間のアクティブな生命活動を是としており、その豊かな心、優れた知性と感性をもってエンターテイメントの中に力強いメッセージを込めてこられた一級の表現者です。その反バーチャルの人がバーチャル化をより押し進める先鞭をつけた、というのは時代の皮肉とも言えます。

 しかし人間の悲喜こもごも、救済願望は、いわゆる大衆娯楽にこそよく現れる、と私は思っていますので、それもむべなるかな、とは感じます。





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